2026(和紙 / 墨 / 605×454mm)
本作品は、前作『plutonium-桜花-』で提示した核の暴走、すなわち「臨界点を突破した境界」の歴史的帰結として、敗戦による日本人の主体性解体を描く「輪郭を失った境界」への相転移の試みである。
【核の臨界から、敗戦による民族の融解へ】1945年の広島における核エネルギーの暴走(臨界)の果てに待っていたのは、敗戦によって民族の主権や固有の言語が強制的に溶かされていくプロセスであった。「臨(主体的に立ち会う)」という意志を構築するはずだった無数の筆致は、薄墨の滲みによって境界を失い、戦後のマクロな支配構造へと包摂・代替されていく民族消滅の姿をリテラルに表象する。
【薄墨の階調に潜む「理の歯車」と24,000年の残響】記号としての輪郭を失った巨大な黒い質量。しかし、一画ごとに濃度を変えて積層された薄墨の階調の奥底には、他者に侵されぬ固有の構造(理の歯車・故郷の音韻)が今なお静かに廻り続けている。かつて命の消滅を「桜」へと置換し記号化してきた日本の美学は敗戦によって形骸化したが、24,000年の半減期を持つ放射性物質のごとく、その解体の残響は現代の底層で永続的な不協和音として響いている。
本作は、二つの「臨」の位相を通じ、戦後支配システムの中で自らの根源を不可視化され、記号として消費され続ける現代の我々の存在論的危機を鋭く告発する。
